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鼻毛。

鼻毛を抜いていると、とめどない。

だいたい、鼻毛を抜きたくなるときは、集中力が低下したときが多いから、精神が鼻毛に依存しているのかもしれないが、「鼻毛を抜く」という行為自体に、私は集中する。

鼻毛がよく抜けるよう、全身をもって鼻の穴を開けるよう努めて、ギュっと抜く。

一気に抜く。

そういうとき、きちんと期待通り鼻毛が抜けてくれると嬉しいし、また期待を裏切るような変わった鼻毛、複数の鼻毛、自己主張の強い鼻毛エトセトラが抜けてくれると、ちょっとした感慨がある。

対して、少々痛い思いをし、鼻毛をしっかりキャッチしたにも関わらず、指が滑ってしまい鼻毛が抜けなかったとき程、切ないものはない。社会から取り残され、ほんの小さな鼻毛に見い出した、自分の存在感。なのに、その鼻毛にさえ見捨てられたとすると、このときばかりは、そして僕は途方に暮れたくなったりする。

幸いにも、素直に抜けてくれた鼻毛達。これはまたなんだか愛おしい。
太い鼻毛やちじれた鼻毛、鼻毛がまだ鼻毛然としていないウブな鼻毛に至るまで、そういった愛おしい鼻毛の数々達をユナイテッドさせたり、時に、デスクの書類の上に採集した鼻毛を並べて悦に浸ることもしばしばだ。

しかし、途中で切れたのではなく、正確に鼻毛が「抜けた」場合、鼻毛には必ず毛根という邪道が付着しており、鼻毛採集の際、下に敷いた採集用紙にくっついたりして非常にわずらわしい。

「鼻毛を語るのであれば?根の能力についても評価されて然るべきだ」という向きもあるかもしれないが、私はあくまでも鼻毛。「アンタは毛根に興味があるかもしれないけど、私は鼻毛。毛のほうに興味があるんだよ」と言いたい。

理由は特にはないが、江戸っ子の粋みたいなものである。

ところで、一般に「鼻毛を抜くなんて汚い」「鼻毛は汚いものだ」とされる風潮があったりするわけだが、これに私は強い憤りを感じる。

鼻毛は大切な鼻孔を外気から守るだけでなく、ときに海ぶどうの構造に合致しながら鼻クソを鼻毛の周辺に繁殖させたりと、なかなか仕事のできる奴であるからして、「汚い」だとか「綺麗」だとかいう論調で語られる存在ではない。

綺麗で、美しく、排泄するイメージさえ与えない美女のあなたに問いたい。胸に手を当ててごらん。あなたの鼻の牧場にも鼻毛が力強く生え茂っていることだろう。

「おお牧場はみどり 草の海 風が吹くよ おお牧場はみどり おお牧場は緑 よく茂ったものだ」(引用『おお牧場は緑』作詞:中田羽後 曲:チェコスロベキア民謡)

私達、現代人にとっての至福のときというのは、たくさんありそうで、実はそんなにない。そういう意味において「鼻毛を抜く」という行為そのものは、ややもすれば地味に、下品に写るかもしれないわけだが、その実、とても哲学的であり、自分自身と向き合うことのできる、言葉本来の意味での至福。

そういう充実したときを過ごすことができるのもまた、鼻毛にしかできない芸当と言えよう。

最近、私はそういうことに気付き、自分自身の鼻毛一本一本に拍手したくなりながら、そしてまた鼻毛を、懲りずにまた一本、また一本と抜き続けるのであった。

2002/10/8


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