「フジヤマとわたし」 じょばんに(めるへん音楽家)
フジヤマキッズ(カタログ)の中で、渡辺さんは語っていました。
「自分の感性を信じて下さいね。
雑誌が良いと言ったものをそのままあてにしても、意味がないですから」
普通のお店なら、売れてるもの、売らなきゃいけないものを、これ売れてますよぅとお客さんにおすすめするでせう。
そしてお店はもうかるでせう。
しかし、フジヤマはそんな無粋な、せこいお店ではなかった。
そんな志の高いお店がいまの東京に存在するということは、都会のめるへんだと感じました。
しがないアルバイトで貧しいわたしは、フジヤマではなかなか高い買い物が出来ませんが、
フジヤマで見つけた素敵な宝物は他のどこにも売っていないし、なんならお金では買えないような、世界にたった一つの私の宝物なんです。
私は80年代のふわふわしたインディーズ音楽に深く影響を受けていま音楽を作っています。
これから、また作品を細々と作ろうとしています。
たぶん、私が影響を受けてきた音楽たちへの恩返しのようなものになる(と良いな)、と思います。
そして、どんなレコード屋さんよりもまじめに音楽を愛してきた渡辺さんそしてフジヤマへの恩返しにもなるような音楽をつくれたらと、
そんなふうに思っています。
ありがとう渡辺さん、ありがとうフジヤマ。
大好きなお店です(いつも安いものしか買えなくてごめんなさい!)。
いつまでもお店を続けて下さいね!
2018/5/18
宝庫だ!! 西垣正宏(首つりTAPE)
岐阜の首つりTAPEの西垣 正宏で御座います。
フジヤマと言えば、僕がまだ、高校生の頃、やたらと通販を利用しまくり、「いつも親切に対応していただいた」事を思い出します。
更に、初めて、フジヤマに出掛けた時、電話をして行ったのですが、〔時間より早く着いてしまった為、その辺でウロウロとしていると、渡辺さんにどうぞと言われた事を覚えています。〕ここでも、渡辺さんが親切にして頂いた事を思い出します。
で、いざ、お店に入ると、自主制作の宝庫!!所狭しと並んでいる自主制作盤の嵐!!!あっけにとられるやら、ビックリするやらで、どうしてよいのか、この田舎モンにはただただ、驚くばかりでした。
この時、既に自主制作レーベルをやりたいと思っていたので、いつかはここだ、このフジヤマさんに置いてもらうんだ、と思いつつ、その後、レーベルをやり始めまして...フジヤマさんに置いてもらった時は大変感激いた事を今でも覚えております。
しかし、フジヤマさんには本当に通販等でえらく迷惑をかけてしまって....大量に購入するわ、なんやらわで...
で、お店に行った際、一度、勇気を出して渡辺さんにお話をした事を覚えてます。とっても良い印象を受けました。
フジヤマさんは他では入手出来ない自主制作まで取り揃えている、かゆいところに手が届くレコード店!!
2005/5/12
今でもPUNX。 Hideki B. IWAMOTO
あれは21年前だった。。。高校1年生だった時にたまたまFM東京で水玉消防団やゼルダ、コンクリーツetcなどをはじめて聞いて”自主制作”という世界を知った。
。。。初めての夏休みのバイトで初めて買ったもの。。。COMESの1stLP!その時に他にも色々買って・・・おまけでEDPSのステッカーかなんかを貰った。(今でも持ってます)
DOLLで店を知り、うち(城南地区)からインディーズレコードが買える一番近い店がFujiyamaだった。
当時Punk Rockのバンドをやってた。3コードしか使わず、ドタバタドラムで政治や身の回りの不満や怒りを歌詞にした。渋谷の屋根裏やLamamaや原宿PLAZAや神楽坂のExplosionなんかに通ってた。髪の毛をDEPで固めて逆立てて、渋谷のジーンズメイトの1980円のスリムタイプのブラックジーンズに安全靴を履いて、CHAOS UKのTシャツにわざと穴をあけたものを着て、東急ハンズで半端ものの革を買って、上野のアメ横で安い合成皮革のジャンパーと弾丸ベルトと鋲を買って。。。そのうちにモヒカンにもした。
バンドはハードコアへと音を変えていった。
いつかFujiyamaに自分達のソノシートを置くんだ!っていう思いをもって、学校サボってバンドの練習や演奏できるライブハウスで前座をやった。しかし何時の間にか私の不平や不満や思想を伴う行動は、演奏を出来る環境をなくし、メンバーもなくした。
せっかく自主制作で作ったソノシートもカセットも中途半端にした。
普通のロック少年のような格好をして、フジヤマに行っては渡辺さんと話をしたかったのに、話を出来なかった。ただ好きなバンドのレコードを買っていた。
今の世の中プレミアづくしで当時買ったものは買った値段よりも桁が違うものに変わっている。しかし絶対に手放さない。そんな値段であの時代を評価されてたまるか!
今じゃぁスーツ着てサラリーマンやってるけど。中身はあの時のまま!
初めて買ってうちに帰って、針を落としたレコードを通勤の満員電車の中でMDに落として聞いてる。
Fujiyamaは、私の聖地だ!
追伸:当時のバンドをスタジオセッション形式で若い連中も交えて復活させてます。
そのうち自主制作のCDを持って行きたいと思ってます。
いつまでもお店を続けて下さい!
2004/9/12
フジヤマと私 松田義人(編集者)
僕が最初にフジヤマに行ったのは、16才の頃だった。
当時、僕は三軒茶屋のローソンでアルバイトしていたのだが、バイト仲間の間ではフジヤマを知らない奴はいなかった。
「フジヤマって知ってる?」「なんか怪しい店なんだけど」「『パンク』とか扱ってるらしいよ、恐いね」と、興味深々で語り継がれていたのだけど、これは今も変わってないと思う。きっと、三軒茶屋でフジヤマを知らない人はいないはずだ。
あるとき、ヒョンなことからその「『パンク』を扱う恐い店・フジヤマ」の前を通りがかり、これまたヒョンなことからお店に入ってみようと思った(この辺の記憶が定かでないので、なんでフラっと入ったかは不明)。
余談だが、このときすでに、店主の渡辺さんの存在は、DOLLとかミニコミで知っていて、なんでも「愛車のベスパをモトクロスのように操り、3メートルくらいジャンプする人らしい」という武勇伝も聞いていた。「凄い人だなぁ」と思っていたのだが、後に聞いたところでは、「ベスパで交通事故に合い、車にぶつけられて3メートルくらい飛ばされた経験がある」というのが正しい表現らしい。
とにかく、僕はフジヤマに入ってみることにした。
すると、肝心の「ベスパで、3メートルジャンプ」の渡辺さんらしき人がいない代わりに(たまたまいなかったんだと思う)、今から思えば、後にブランキー・ジェット・シティーをやる中村達也さんと、いつもフジヤマに遊びに来ていたクミさんがレジにいたように思う。店内では、物凄い恐い音楽(今から思うとハードコア)がギッンギンがかかっており、その割にはフレンドリーなスマイルで「いらっしゃいませ」。
ラフィンノーズとブルーハーツしか知らなかった僕としては、この恐ろしい音楽と、達也&クミのフレンドリー・スマイルのギャップでなおさら恐くなり、その日は何も買わず、オロオロしながら無言で店を後にしたと記憶している。
「やっぱり『パンク』は恐い。ラフィンノーズとかブルーハーツとは、なんか違う」と思い、それからしばらくはフジヤマに近寄ることはなかった。
それから、ライブハウスなどに通っていくうちに、あれほど恐かったパンク、ハードコアにも慣れ親しみ(当時のライブハウスはパンク、ハードコアのエブリデイだった)、やがて当時静かに流行っていたミニコミを自費出版することにした。
ミニコミのタイトル名は「くるくるめだま」。定価200円。僕が17才のときのことだ。
ミニコミを作るのは楽しかったし、印刷所に入稿するのもズブの素人ながらスンナリできたように記憶しているが、納品されたミニコミの山を目の前にして、はたしてこれをどうやって売っていいのかがわからない。いろいろ調べていくと、インディーズを扱うレコード店に委託販売するのがいいということがわかり、これまたいろいろ調べていくと、近所ではなんとあの恐い店、フジヤマに置いてもらうのが良さそうだった。それがわかると、再び委託販売してもらうミニコミの束(紙は重い)を抱え、フジヤマへと向かった。
「もう恐くなんかないよな、俺。大丈夫だよな、俺」と、自問自答しながら……。
店内に入ると、今度こそ「ベスパで、3メートルジャンプ」の渡辺さんに会うことができた。
初対面の渡辺さんはロングヘアーを束ねており、やはりちょっと恐かったのだが、それとは裏腹に、僕が持っていった「くるくるめだま」をパラパラめくりながら、ミニコミの素晴らしさ、音楽の素晴らしさ、あらゆる芸術の素晴らしさを、初対面の17才の僕に説いてくれたのだった。
このとき、「ベスパで、3メートルジャンプ」の話が聞けなかったのが心残りではあったが、帰る頃には、すっかり僕の夢は膨らんでいた。ミニコミを始めた以上、人に自分の気持ちを伝えたいのはもちろんだけど、一方通行じゃなくて、やはりその気持ちを共有でき、または他人の考えを聞けることが何よりも嬉しかった。
ちょっとクサい言い方をすれば、学校では得ることの絶対にできない、僕にとっての新しい学校がフジヤマだった。それからというもの、僕はすっかり受験勉強をする気がせず(そんなことをしていては将来がダメになると思っていて、それは今でも変わってない)、頻繁にフジヤマに通うようになる。
ズーズーしいのだけど、僕は困ったとき、迷ったとき、壁にブチ当たったとき、フジヤマという学校に行く。そこで、音楽の素晴らしさや自分の伝えたいことを再確認し、または新しい発見を得るのだった。
フジヤマは恐い外見だけど、あらゆるあらゆる芸術の、伝達の、誠実な姿がいっぱいある。
大袈裟のように聞こえるかもしれないけど、本当にそうなのだから仕方ない。
2001/5/17
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いつだったか、ミニコミをやめようと思ったとき、「フジヤマ・ウィークリー」で渡辺さんが誉めて下さったことがあり、(左)参照「FUJIYAMA
WEEKLY #274 1990/11/19」より。
そのことが今になっても勇気づけられることがある。ほんの数行なのだけど、こういった渡辺さんの言葉で勇気づけられたバンドマン、アーティストは少なくないはずだ。 |
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89年頃のフジヤマ。
写真に写っているのは、僕の仲間の我童くん(ex.叫ぶ詩人の会)。現在はレゲエDJ
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渡辺さんこんにちは。 富永剛総
公美堂の二階でのフェイクファーの作品を覚えています。
もりわじん、オノデラつながりのGOSOです。
21世紀なんですよねぇ。
信じられない。いまだに。
2001/5/9
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何年か前に、もりわじんや尾野寺君達とギャラリー「公美堂」
でグループ展をやったんです。たしか、その時フェイクファー
で作った羊を出品したんです、私。
GOSOさんも、いい写真作ってください。
(注)渡辺正 |
フジヤマと私 保山宗明玉
フジヤマというと、店の中の嵐のような品ぞろえよりも、断然フジヤマ店頭ライブの印象が強い。
各自が花を持ちよっての「秋の花見大会」とか、怪談まんがを大量に並べた「怪談まんが喫茶」、雑誌のグラビアをみんなで撮影する「ヘアヌード写真撮影会」、ウォークマン数台を使って行なった「パーソナル・ラジオカセッツ」、ソフトドリンクとハードドリンクのオリジナルメニューを作った「カフェ」、シーチキンをひっぱりあう「ツナ引き」、マンツーマンの電話ライブなんてものもしたっけ。エトセトラ、エトセトラ。
これだけくだらないことを自由にさせてくれる場所は、西のベアーズと、東のフジヤマ。日本に2ヵ所だけだ。
貴重だ。レアメタルだ。ミディアムレアだ。
店内にもミステリースポットがある。
僕、保山がかつてバカほど作ったミニコミ「アバボゲガ」がまだ販売中。袋に入っていて内容はわからない。「アバボゲガ」の版下はほとんど残していない。
内容なんて忘れた。
めちゃくちゃ読みたい。
きっと僕のセンスにぴったりあうような面白い内容なのだろう。でも、自分のミニコミをお金出して買う気にはなれない。
今になって「どうして無料にしておかなかったんだろう」と悔やまれる。
もしもタイムマシンがあったら、過去の自分に、「タダにしとけ」と言ってやりたい。
「ちゃんと覚えとけ」とも言ってやりたい。
「だっちゅーの」と言って、流行語の先取りもさせてやろう。
そんなフジヤマに私はなりたい。
2001/5/9
フジヤマと私 ナエモ
何年か前に三軒茶屋に住んでいたことがある。
「三茶に住んでるんだったらフジヤマ行ってみな。面白いから」って友達に勧められて足を運んだ。行ったことのある人ならわかると思うけど、あの小さな入り口は、まず入るのに勇気がいる。入ってみて、ところ狭しとひしめき合っているCDやら、レコードやら、カセットやら、おもちゃやら、に圧倒される。それより何より、店の奥にひっそりと、でもこの上ない存在感を放っているおぢさんに圧倒されて、最初は何を見てたのか、何を買い物したのか、よく覚えてない。あー、なんか、私の知らない世界があって、そこできらきらと生きてきた人たちがいるんだなー。なんてことを考えたりしてるうちに、いつのまにかフジヤマに通うようになり、気がついたら渡辺さんと言葉交わしていた。それからいろんなことがあったけど(略しすぎ)今でも渡辺さんとは言葉を交わしつづけている。
最初にフジヤマを教えてくれた友達や、フジヤマを通して知り合った人とは今でも大の仲良しだし、別の場所で知り合った人でも、何らかの形でフジヤマに接点を持ってて「渡辺さんがさー」なんて話ができる人たちのことを私は信用している。そういう意味でフジヤマは心の故郷みたいなもんで、渡辺さんは父さんだ。
その昔、私が知らなかった世界は、今ではぐっと身近にある。
ほんの少し目を凝らせば、ほんの少し手を伸ばせばそういう場所はどこにでもあって、例えばそれがフジヤマだったりする。そこからまたいろんな世界に出会うことも可能なのだ。
フジヤマに行ってみて、中には何も見つからない人もいるかもしれない。
でもそれはそれで,そういうことだ,という意味がある。私は出会えた。運がよかったんだな。きっとこれからも、まだまだいろいろ出会えるはず。
また遊びに行くよ。
2001/5/5 |