第14回 伊藤ヨタロー(メトロファルス) |
2004/6/13 |
●1984年頃フジヤマ店内のヨタロー |
昔、下北沢五番街を辞めて新たに自主制作盤専門店を開業するに当たって、物件を捜してみたが、予算の都合でみなマンションの二階とかしか無くて困ってたら、ヨタローが下北沢の「ネバーネバーランド」が人を捜してるから、そこで店を始めたらいいんじゃないか・・・とか言う。ちょくちょく行ってた飲み屋だし二階だが木造の雰囲気ある建物だから、それも面白いかもなんて考えて、オーナーに相談に伺った。こちらの話し、オーナーの話しを付き合わせて、断念した。ネバーネバーランドをやめるつもりはどうやら無いらしく、それでは雇われ店長になってしまう。 せっかくのヨタローの好意も無駄になってしまったが、そんな事もあったなァと、今もあるネバーネバーランドの前を通るといつも思う。 もしかして、フジヤマは下北沢にあったかも知れないのだ。
|
第13回 チャーミー (ラフィンノーズ) |
2004/5/3 |
●1985年頃フジヤマに落書するチャーミー |
大阪から上京したチャーミーは自分のレーベル「AA」をどうしたら大きくなるのかと、いつもギラギラしてたなあ。 彼がフジヤマに来ると、私が馬鹿話ばかりするので「妙なオッサンやなあ」と言われたのを覚えてる。パンクオンウエーブを略して「POW」という雑誌を「AA」で計画中だと聞いて「POW」ってバンドもあるよ・・・と、彼に言ったら、「有名になった方が浸透されるんちゃう?」と全く気にも止めないで笑ってた。スキッと前進あるのみの心意気を見た。
|
第12回 U−CO (アレルギー〜水の羽) |
2004/1/15 |
●1986年頃の楽しそうなU−CO |
もう亡くなって随分経つけど、彼女は凄かった。 なにが凄いって、店に来るのはいつも夜中で、来る度に言ってることが違うから楽しい。 大泣きして「フジヤマだけだよ、こんなに裸になれる場所なんかないよ」と、言ったかと思えば次に来た時は「私、人に本当の自分をさらけだす場所がないんです」。 先週はそんな事言ってなかったじゃない!と言うと、フジヤマは別格なの・・・と、訳わからない弁解しつつ笑ってた。店で売ってたU−CO自身のポートレートが表紙カバーになってるミニコミ誌「チェンジ2000」を手にして私に言う、 「これ万引きするね!」 それを言うなら「これタダで頂戴ね!」と言うのが正しいだろうが! 2冊彼女にあげた。
|
第11回 田口トモロヲ (俳優/ばちかぶりVO) |
2003/2/6 |
●1985年フジヤマ店内で「はなたらし」のカセットを買って喜ぶ(?)トモロヲ |
すっかり俳優として、ごくごく普通の市民を演じる事の出来る貴重な存在になっている。 普通ってのが、なかなかに厄介で、普通に見えてその実、ドロドロとした変態性を誰もが持っているもので、当の本人は気がついていないのも事実。そのあたりの微妙な感性を表出させて見事なのが、誰あろう「田口トモロヲ」。 でも、ぼくの中では、俳優と言うよりは、妙な事考えてるパンクロッカーとして演じる彼に凄みを感じている、昔っから。 逆転しているのだ、トモロヲの場合。 本人は物静かで「オチャメ」で、普通に見える粋な男なのだが、いったん『演じるモード』に突入すると、なにもかもが馬鹿馬鹿しくて、事の本質を突いてしまう。本来パンクでもなんでもないが、よりパンクに近接してしまう、パンクロッカーとしての奇跡的な突然異変。本質的にノータリンな典型的パンクロッカーではないのだ。 ひとつ『演じる』というクッションを使い分けているようにも見えるあたりが、新しい。しかも、よりリアルなステージを垣間見せる。音楽って、普通って、怒りって、笑うって・・・・・なんだろう、と思わせる。ボクはいつも、ステージの彼を見ながら、気持ちよく、そう思う。 しばらくバンドでのライブ活動を止めていた2000年頃、彼をフジヤマのライブ企画で出てもらおうと「ばちかぶり」に出演交渉し、快諾。どんな感じでやろうか、打ち合わせに来たトモロヲ、フジヤマの中を徘徊して一言 「もう昔みたいに、今のロックわかんないよ」 今も昔も、ロックなんて分からなくていいのだ。分かるようなロックなんて、たいしたもんでもない。 答えていう 「トモロヲの今でいいよ」 困った表情を作ったトモロヲ、彼は真面目に言ったものだ 「マジメにロック勉強します!」 勿論、勉強なんてするわけは、ない。 up
|
第10回 杉山晋太郎 (スターリン) |
2002/11/23 |
●フジヤマ前でホッケーゲームする晋太郎(写真左) |
晋ちゃんは、いい人だった。 スターリンで強暴なイメージを与えたが、プライヴェートで彼を知るひとは、優しさに溢れた人柄を忘れないだろう。フジヤマに来ては冗談ばかり言ってた。照れ隠しの成せる仕業なのは、昔っから分かってた。 自宅では猫を飼っていて、別段血統書付きでもない普通の三毛だったのが、彼らしい。もっとも、当時同居していた彼女の猫かも知れないが、ともかく猫の話が、多かったのを覚えている。 アルケミーレコードのシンタローソロLP「newton's oblige」のジャケット写真を頼まれて、彼のアパートへ出向きスナップのように簡単に済ますと、飼猫の写真も撮ってというから挑戦したが、あいにくストロボ持ち込んで無かったので、ろくでもない写真しか撮れずに謝ったが、猫の写真は難しい。猫、動き過ぎだし、興奮して。 申し訳無く思ってたら、後日彼がやってきて「渡辺さんのアタフタする光景が見れて、楽しかったよ」と。 いいやつ。 我が草野球チームの正二塁手の彼、試合の時は大抵一番乗りでフジヤマに来る。いつだったか、例によって楽しい敗戦の後、(いつも負けてた、マイ・チーム)店の前でホッケーゲームを残ったメンバーで始めた。 ナルミちゃん(GAS)後藤タツヤ君(現ベアボーンズ)蓮尾君(VID−SEX)らと、白熱したが、ゴッタツの反則気味シュートに、笑って許してた。 ホントいいやつ。 晋ちゃん、亡くなって何年経つのかなぁ。
|
第9回 赤痢 |
2002/5/9 |
●初上京のメンバー4人フジヤマ前で |
赤痢という京都のギャルバンドを東京に初めて呼んだ時はおかしかった。 ビートクレイジーから「夢見るおまんこ」なんて恥ずかしいシングルを出してたから、うす汚いパンク少女かと思ったが、どこにでもいそうな女子高生って感じで楽しかった。 ギターのクーチンはPAの事を「パってなに?」と尋ねた伝説を持ち、ドラムのあやちゃんは東京のどっかで買ってきたダサイ「クイーン」のアルバムを私の部屋で何度も何度もかけては「ええわー」の連発。私の部屋はすっかり女子高生の修学旅行状態。 東京で初のライブだというのに、単なる行楽旅行のようだった。彼女達、フジヤマで遊んでたら客にあれこれ薦め始めたヴォーカルのミッキー。おかしいから黙って見てたら、客のほしいものじゃないらしく買ってくれなかった。 その後のミッキーの言い草がいい「買うてくれてもいいやんか、疲れるわ」 この時ばかりは、パンク全開だったが私は大笑いした。
|
第8回 石野卓球(電気グルーヴ) |
2002/3/20 |
●左より卓球・渡辺(フジヤマ)・篠原ともえ |
卓球は忘れた頃にひょっこり顔を出す。 しかも、なにか必ず買ってゆく。一番高い買い物はレジデンツのトレーナー7500円、一番安いやつで私の放出レコードのジェームス・ブラッド・ウルマーのラフトレード盤500円。 ある日の事である「ないと思うけど」と前置きして言いにくそうに「パンゴのピナコテカ盤なんて無いよね?」と聞く。 店のどっかにあるのを記憶してた私は探し出して定価の2000円で売った。 卓球大喜びで言った。 「フジヤマは文化遺産として、国から援助保護してもらった方がいいよ!そのぐらいの価値はあるよ!」と笑ってた。 ある日の事である「無料配布のテープなんだけど聴いてよ、笑うから」と私。DUM DUM TVの「カルトスペシャル」をあげるが、後日卓球が来て「凄すぎる!」と笑ってた。 なんと、そのカセットを卓球が某雑誌に大推薦してしまったせいで問い合わせがフジヤマに殺到。仕方ないから許可とって販売するはめになる。 ある日の事である「キューティで篠原ともえちゃんとデートするっていう企画があるんだけど、フジヤマでデートというのも意表をついて良いと思うんだけど」と卓球。 ともえちゃんちっとも嬉しそうじゃなかった。なに考えてんだか卓球。
|
第7回 クレイジーSKB (QPクレイジー) |
2001/12/15 |
●1990年頃のクレイジーSKB |
恐悪狂人団と名乗る少年が、開店してすぐの頃のフジヤマにやって来た。 店に委託してもらおうと、彼が持参した1stのソノシートの音は酷かった。私はそれでも興奮した。何かとてつもない嫌悪が詰まったその音の純粋さに、こういう音楽もあっていいと。表現の純粋性はクリエイティブという名のもとに、犯罪から、この少年を救っているのかも知れない、そう思った。彼は、なにはともあれ作ったのだ、この酷い音のレコードを、立派じゃないか、と私は思った。 クレイジーSAKABAと名乗っていたが、何時の間にか「クレイジーSKB」と名前を変えていたその頃、結成直後の「猛毒」のライブ後、店に寄ってくれたが、私は店内改装中でトイレの壁を白いペンキで塗っていた。見ていたクレイジー君は夜中だというのに、手伝うと言い出し、ペンキで塗りだした。 音楽がなければ、きっと犯罪者にでもなってしまうんじゃないか、内に秘めた「憎悪」をクリエイティブに転嫁している彼は、実は優しい心を持ち合わせている、そのバランスがいい。 殺害塩化ビニールというレーベルを主宰して間もなく母を失うが、その告別式は、寺の住職の長男としての、けな気な姿を、私は忘れない。
|
第6回 the原爆オナニーズ |
2001/10/25 |
●左よりエディ(b)シゲキ(g)ひとりおいてタイロー(vo)ジョニー(dr) |
いい意味でローカルバンドの腰の据わった気概を感じる。 パンクロックを謳っているが勿論その音は深くロックの歴史を慈しんでいるに他ならないから軽薄な表層だけのパンクロックには聞こえないし「パンクロック」をやってるつもりもないと思う。
|
第5回 小嶋さちほ(ゼルダb)と、高橋佐代子(ゼルダvo) |
2001/9/3 |
●招き猫バザーの日のふたり |
ゼルダがモモヨ(リザード)のプロデュースで、フォノグラムからメジャーデヴューしてしばらくの後、ソニーに移籍した頃、チホちゃんと佐代子が「招き猫カゲキ団」というユニットを結成した。肩肘張らずに自分たちのペースで音楽を楽しみたいといった、おおらかな、それこそインデペンデントな成り立ちであったように思う。 勿論レコードも旧知の地引さんの自主レーベル「テレグラフ」からのリリースで、そのアナログレコードには彼女達の遊び心で、おもちゃの折り紙などのおまけなんかを入れていた。楽しそうな気分の活動方法だった。内容も子守唄のようにシンプルでおおらかなもの。 その頃、フジヤマの前で定期的にフリーマーケットをやろう!という事になってチホちゃん達のステージ衣装やら不要になった洋服を売ることにする。名付けて「招き猫商会」。私は漠然と楽しそうでいいや、なんてのんきに構えていたけど、もの凄いお客さんが集まって、交通整理のおじさんと化していた。 夕方、陽が落ちて片ずけもおわり、ホッとしてたら佐代子ちゃんとチホちゃんが金一封の入った包みを私に差し出して「これ謝礼!」。3千円だかの金が入っていた。お金なんか貰えるなんて思ってなかったから「ウソ!助かっちゃうねぇ!」なんて言ったら、すかさずチホちゃん「そんなに入ってるわけないでしょう!」みんなで笑った。
|
第4回 地引雄一 (テレグラフ・ファクトリー/イーター主宰) |
2001/6/27 |
●1992年夏フジヤマ店内にて地引さん(左)と私 |
私はフジヤマをオープンさせる前に「下北沢五番街」の店長をしていて、地引さんはゴジラレコードのミラーズのシングル盤を納品してくれたのが付き合いの始まりだったような気がする、80年代はじめだから、勿論インディーズなんて言葉も無くて「自主制作盤」なんて云ってた時代。 「マイナー盤」という言葉が当時は通りがよく、ポピュラーだったが、なんか嫌で、二人で「自主制作盤」という事にした。 まだまだインディーズなんて置く店もなく、東京では新宿「エジソン」「帝都無線」高円寺「BOY」中野「オールディーズ2」そして下北沢「五番街」が全ての明暗を握っていた。 オリジナリティと淡い夢にとりつかれて、レーベルとショップが金銭抜きで協力しあえた本当に純粋な関係の雛型を地引さんと作った自負がある。 その頃の同志がJOJO(アルケミー)であったりタム(ADK)であったり西村茂樹(RBF)であったりするが、失踪のタムは残念だが、この頃の同志は今も不変の精神的な繋がりを感じる。 そして、その祖は地引雄一の人柄によって築かれたと言っていい。
|
第3回 中村達也(ブランキー・ジェット・シティー) |
2001/5/26 |
●1986年頃 photo by 熊谷久美 |
オキシドール/GOD/スターリン/マスターベーション/the原爆オナニーズ/ブランキーと、タツヤのバンド遍歴はストリートロックの王道である。 ドラムの生音のでかさは、比類ない。 好青年だが往年のロック野郎にありがちな気分屋さんのところもあって、なんとも楽しい。ブランキー始めた頃、金が無くて困ってるようだったので、フジヤマの店番アルバイトしてもらった。あたりまえのように、ちゃんと店員してた。 そのうち、私が金に困ってしまった。でも、笑った、二人して。 刺青の彫師になろうか、なんてマジな顔して話したけど、なんなくて良かった。やっぱ音楽で生計を立てるのが、一番いい、あんな素敵なドラムは今まで見たことが無い。なんか幸福な気分になる。 人ずてに聞いたが「フジヤマは大丈夫か?昔と全然在庫変わってないぞ!」と心配してくれてるらしい。「大丈夫な訳ねーだろ!」と、答えておこう。 でも、笑ってるよ、いつだって俺。心配してくれてんだったら、ゴキゲンな音楽やっててね、タツヤが大丈夫なら、フジヤマも大丈夫なんだから。
|
第2回 江戸アケミ (暗黒大陸じゃがたら) |
2001/4/21 |
●[右] アケミ [左] 渡辺(フジヤマ) photo by 熊谷久美 (P) 1985 |
アケミが店に来た時、店には客がいず、って、まあいつもの事なんだけど。 バイトの女の子もいず暇だった。「さっきから誰も来ないけど、店は大丈夫なの?」とアケミ。大丈夫な筈ないんだけど「やるときゃ、やるんだよ」と笑って、暇つぶしに、じゃがたらの「南蛮渡来」をかけたら「やめてよ!」と照れながらも身体は踊っていたんですね、アケミ。「今日からフジヤマはディスコだ!」なんて言って店の外で踊ってる、へんなおじさんのアケミ。「クニナマシュ」をもう一回かけて私も踊る、酒も入らず真昼間から踊ってる、へんなオジさん2人。 普段は照れ屋のアケミが店頭で踊ってる、私はなんだか店の客寄せしてくれてるような気がして、アケミに負けずに踊り狂ったんだ。踊りというよりリズムにあわせたヤケダンス。そしたら大笑いしたね、アケミ。「渡辺さん最高だよ、やっぱ自分の踊り方で踊ればいいんだよ!」と。 この言葉がアケミらしくって、深い。 忘れちゃいけないと思って店の看板にしたのはアケミが死んじゃってから。もっと早くから看板にしとけばよかった。看板を見たアケミがいつものように照れながらも、又、踊ってくれるかも知れない。
|
第1回 林直人 (アウシュヴィッツ) と 町田町蔵 (現 町田康) |
2001/3/31 |
●1984年夏ウルトラビデのLPを手にして笑う町田(写真右)と林(写真左) |
フジヤマをオープンする前から面識のあった林君は、当時、YOU(現ラフィンノーズのチャーミー)などのシングルをリリースしていたアンバランスレコードという自主レーベルに一区切りつけて、非常階段のJOJO広重とともにアルケミーレコードをプロデューサー的役割で立ち上げた。 関西の純な音楽は彼の尽力無しには語れない。 現在ある全てのインディーは彼あればこそ、といってもいい。私は、関西のインディーを語る、いろんな書物のなかで林君の名前が出てこないものは信用しない事にしている。 その彼はINUのオリジナルギターリストである。現在、自称、元パンク歌手を謳っている町田康がヴォーカルのあの素晴らしいバンド、イヌ。 林君は別にアウシュヴィッツという、今でいう歌もの的バンドのはしりをすでにやっていた、彼のヴォーカルは芯があり、ダメさ加減も見せる実に泣かせる男ぽいものである。ダメな人種が男なんだよね、これまた。 町田町蔵といっていた頃、イヌのレコード発売に併せてフジヤマに2人で遊びに来てくれた。その後、町蔵は北澤組のライブチラシを持って来てくれたりしたけど、あれよあれよという間に作家になって、ちっとも貧乏くさくなくなって、名前も康という本名に戻して今や人気作家。なんだか、文体のリズムが音楽してるようで、大好きです。元パンク歌手という、照れた自称を名乗るに充分過ぎる面目躍如である。 そして、林君である。音楽活動を再開する連絡が入る。私はいてもたってもいられない。きっと休んでいた訳でもないと思う。生活は音楽なのだから。 [注] 林直人君は2003年7月に死去 合掌 |