#1    シルヴィ・バルタン/アイドルを探せ(ビクター/EP)



誰でもそうであるように、人は見かけでは分からないもの。

有能なパソコンのエンジニアが実は古いオモチャみたいな電卓を愛してやまなかったり、野球のプロ選手がオフでのゴルフに嬉々としている様は、微笑ましいが、それは、それが仕事ではないからである。

で、なぜフジヤマで売ってもいないレコードを語ろうとするのか、それは、今の自分を構築しているものは、日本のロックばかりじゃないし、むしろそれ以外の音楽だったりする。
日本のロック専門店を経営してるからって、好き嫌いはともかく、それ一途である筈がない、そんなヤボテンじゃ勤まりません、人としてどこか欠落してしまうし、第一つまんない、底の浅い性格に成り下がる。

私の持論だと、かのボブ・マーリーだって実はパンク・ロックをやってるつもりが、ああなったんだと思ってる。パンクにインスパイアされて、やってはみたけど出てきた音楽はレゲエさ。それで充分だと思わないか、ボブ・マリーのパンク・ロックさ、それを人はレゲエと呼んでるだけさ。私はパンクのつもりで聞いている。

今がこうだからって、あの人はどうだとか・・・それって、その人の事の半分も分かっていない、そして、人生あんなこと、こんなこと,いろいろあっての今なんだ。

だから、ニューキー・パイクスがアバのダンシング・クイーンをやったって全然不思議じゃない。ニューキーが凄かったのは、それがギャップや余技でやってなかった事が重要なんだ。出てきたものだけに囚われてると、思い違いをする。それもまた楽しいけど。

買ったレコードには私の思いや気分が濃厚に付いている。仕事の耳では聞かない愛着のあるモノをひとつひとつ自分の為に書き残しておこうと思います。これを読む人にはいい迷惑かも。

 私が自分のおこずかいを使って初めて買ったのがシルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」定価330円の時代、私はいくつだったんだろう、とにかく子供だった。音が出るのが嬉しかった、しかも子供心にバルタンの声はエッチだった。母が来るとなぜだかボリュームを下げた。

深川の森下町にあるレコード屋でプレスリーかバルタンで随分迷った事を今でもよく思い出す。エルビス・プレスリーの「ハートブレイクホテル」を買いに行った筈なのに。

当時、旬でやたらラジオで流れてた、そしてレコード屋でそのバルタンのジャケ写真を見たら、やっぱり正常な思春期のガキだったら迷うよね。今の子供なら2枚楽勝で買っちゃうだろうけど、昔の330円は高かった。シングル1枚買うのに汗ばんだ。

生まれて初めて買ったレコードがエルビスじゃなくてシルビー・バルタンになったことがなんだかいい。

あのセクシーに始まるドラムに、子供の頃の汗ばんだ記憶が蘇る。

2001/3/21


  #2   peter,paul and mary/the best of (東芝音工/LP)



中学だか高校だか定かではないが、近所の幼馴染の3人でバンドを組んだ。

学校終えて、家に着くと、「たーちゃん、やろうよ」と、誘われる。友達3人、ガットギター片手に近所の川辺に集まった。私はギターを買えなかったから、ヴォーカルだ。自分で決めた、文句は言わせなかった。昔も今もわがままなんだ、きっと。貧乏に負けなかった男の中の男は、この私。

本当はエレキバンドをやりたかったんだけど、自分でギター買えない分際で、エレキ買え!とも言えずフォークバンド。当時の東京下町は、まだまだ貧しかった。友達は、エレキといえば加山雄三かベンチャーズしか知らなかったから、私のやりたかったアニマルズは無視され、ジョーン・バエズやブラザース・フォアなんか歌ってた。当時の私はFENばっか聴いてたから、知識はそれなりに入ってたので、あれこれ勧めてロックをやる作戦に出ていたんだけど理解してもらえず。どうやらハーモニーの綺麗なバンドをやりたいらしい。普通ならここでバンド解散てなことになるんだろうけど、バンドは楽しかったし、友達は気が合ったし、なにより当時は貧しかったから、遊びとしてのバンドごっこは、なにかクリエイティブに思えた。

ある日、友達がPPMのレコードを持ってきた。しかも、LPだ、私達はシングル盤しか買えなかったのに、だ。
ハーモニーが確かに綺麗に思えたし、当時は「パフ」のヒットこそあれ、マニアックに思えたのは、いかにも下町の貧乏な狭い世間に生きていたからかも知れない。皆のやらない曲をやりたかった私は、少し嬉しかった。思い返すと恥ずかしいが、当時PPMは僕達の間では充分にロック的だったのだ。反戦の歌ばかりなのに意味も解らず、コピーして歌ってた。のんきな少年達、しばらくは練習に明け暮れた。川辺のひんやりとした匂いをたまに思い出す。いい時代だったと思う。のんきで。

「ドント・シンク・トワイス」が好きだった。初めて歌詞を訳してみた。そして、3人とも押し黙ってしまう。もっと、のんきに楽しみたかったように思う。

あれから、その友達とも疎遠になり、PPMのこともすっかり忘れていた。先日、三宿の古本屋で、その友達が買ったと同じアルバムを発見して、懐かしさの余り買ってしまった。私も当時、買いたかったけど、買えなかったそのLPに針を落としてみたら、同じ個所で、同じ傷ノイズが入ってた、もしかして、これ何十年も前のアイツのレコードだったりして。

2001/4/11


  #3  the stooges/the stooges(elektra/LP)



ストゥジーズのこの1STアルバムはよく聴いたなぁ。そして、よく売った。

フジヤマをやる前、私は下北沢で「五番街」という、レコード店の店長なんかしてたので、アメリカ盤を仕入れてはパンク少年少女達に勧めていた。というより、押し売り。

当時、ピストルズ登場の嵐で、新人のへみたいな欧米のパンクバンドも、つられてよく売れたが、なぜかストゥジーズはみんな知らなかった。ヴェルベットやボウイを買う人にも「一緒にこれなんか、どーですか、お客さん!」と、猪木みたいな事言って、よく断られたりして5円安。

それでも随分売ったはず。五番街にいる頃はイギー・ポップがボウイのプロデュースでボウイみたいになってたので、というより逆か、この場合。ま、とにかく私はストゥジーズの、この 1st と 「raw power」を事あるごとに勧めていた。でも、私の好きな女の子たちは、デヴィッド・ボウイにうっとりして、へんてこりんなイギーさんを「キチガイなんでしょ?」と笑って、オシマイ。

ゼルダにドラムとして加入する前の小澤亜子ちゃんが、よく店に来ては私のすすめるストゥジーズを無視して、ボウイかなんか買ってた。彼女は可愛いから、やっぱボウイにいくんかいな、と諦めた。しかし、よくできたもんでブサイクな女とキタナイ男にはよく売れた。嬉しい事に姿形はひどくても、みんな性格のいいお客さんばかりで、いまでも年賀状をくれたりしている。私に勧められて買ったその人たちは必ずといっていい程イギーポップの来日ライブでは顔を合わす、義理堅い人たち。

ジョン・ケールがやっぱ、へんで、イギーとへん争いしてるこのアルバム、私には実にスタンダードに聴こえるんだ。この場合の「へん」は大多数の人が思う「へん」であって、そんな「へん」はちっともへんじゃない。当たり前のことをしてると思うよストゥジーズは。凡人とたいして変わんない思考方向でモノの表現なんか出来る筈ないじゃないか。そんな人たちが「へん」なことやることが、表現のスタンダードなんだ。

だから「へん」こそ当たり前なスタンダードなんだ。

2001/4/20


  #4   big mama thornton/sassy mama ! (vanguard/LP)



私はニューヨークに3回行った。

初めての時は興奮した。20代で頭も切れてたから、めちゃくちゃな街に、ときめいた。

当時はハプニング全盛のピークを少し越えてはいたが、まだまだいた、その残党どもと遊びまくった。壁に体当たりして、赤くはれ上がる肌にマジックで目鼻を描いて「ビューティフルナンシー」とかタイトル付けちゃって、そいつを、作品だと言い張って見物人に見せてたジェイコブ君とは、その作品が縁で友達になった。というのも、私も同じようなことをセントラルパークでやってたんだ(笑)。

 帰国して数年し私は30代になっていた。下北沢五番街というレコード店の店長職にあったが、色んな事に疲れててボンヤリしてた。そして退社。そんな時だ、あのアホジェイコブから「個展やるから来い!」というインビテーションカードをもらった。もらってもなぁ、敵はニューヨークだ、「じゃ行こう」って行ける距離でもない。第一、金がない。その旨手紙出したら、ジェイコブんちの実家が農家で、そこで1週間バイトしてくれれば航空運賃ぐらい出すとか言うんだ。壁に体当たり仲間の結束は固く、人情にも厚い。妙な日本人であったはずの私を、忘れもせずにいてくれた事が嬉しくて、2度目のニューヨーク。

 ジェイコブの個展はコテンコテンで、ってシャレてみるしかない出来で、海にイルカが泳ぐ絵で大儲けのレッソンだかアッソンだかのヤツに似た、くだらん絵。友達じゃなかったら、どうでもいい感じ。でも、けっこう評判は良かった。評判のいい絵を描いてるうちはダメだよ・・・・と言ってやったら、笑ってた。あの「ビューティフルナンシー」のエスプリが好きだった。楽しかった。

 ジェイコブと大喧嘩して「体当たり仲間同盟解消」謝ってくるも私許さず。もう会う事もない、そう決めた。むしゃくしゃしてたのでハーレムに行ってみる。なんでハーレムなのか、思い出せないが治安の悪いとこ、と言われてたから、そんなところは概しておもしろい。おもしろいというのは、面白い人がいるという意味。
どこの土地にあっても、人とのかかわりでその地の印象が決まる。パリの文化やインドのわけ分かんなさが、いくら好きでも、そこで知り合った人がヒドイと、その何人かのためにパリは私にとってダメなとこだし、インドは嫌いだし。要は人なんだよ。

ハーレムで素敵なレコード屋を見つけた。

レコード屋のくせして、私の知ってるのはマイケル・ジャクソンのレコードしかなくて、ほとんどは、いかがわしそうなカセットが山のようにある。当時はヒップホップが流行の兆しで、人様の作ったレコードを使い、そこに自分のラップを入れて作品だ。頭悪そうなガキが店のオヤジとなにやら取引している。すわっオクスリ現場かいな・・・・ハーレムだし。なんて思ったら大間違い、笑ったね。このガキの作ったカセットのヒップホップ作品をオヤジが1本1ドル25セントで買い取ってるんだ。もしかして委託かも知れない、とにかく幾らかの金を渡していた。のちのち分かったんだけど、ガキが前回もってきたカセットの売上精算だった。

おもしろくて、毎日店に行っては店番もさしてもらった。

私が店番してる時、やせた黒人婆さんが来て、ゴソゴソと趣味の悪いキンピカ豹柄の買い物バッグの中からカセットを5本出して置いてった。「ファーーーイブン」と大声で私に言ってから、店頭のベンチでエロ雑誌読んでるオヤジにウインクして、よたよた帰っていった。
カセットを聴いてみた、凄かった。ゴスペル。婆さんデカイ声。ミキシングひどくオルガンほとんど聞こえず。婆さんデカイ声。一生懸命デカイ声。私笑う。片面15分それ延々同じ曲。婆さんデカイ声。私笑う。

翌日、私買いました「婆さんデカイ声」。そこには、純粋な音楽があったから。

オヤジに訊いてみたら、そんなもんばっかりだそうだ。嬉しくなった。どうみても、たいして売れてるようには思えない店なのに、ちゃんと店を維持できてるのに感動したし、ちゃんと「音楽」はそこにあるし。

オヤジの真似して私は「フジヤマ」をオープンすることになる。

帰国する私に送別だといって、くれたのがオヤジの店でよくかけてたビッグ・ママ・ソーントンのソウルブルースのLP。コーネル・デュプリーのギターがいかしてるけど、ビッグ・ママのヴォーカルが「婆さんデカイ声」を思い出させて、フジヤマの初心を忘れかけた時に聴くようにしている。

3度目にNYに行った時には、もう店はなかった。オヤジさん、亡くなったという。

跡地に立って、ひとつ溜息が出た。

2001/5/11


  #5   thelonious monk/thelonious himself ( riverside/LP)



セロニアス・モンクのピアノは、飄々とした不気味さがあって、一人で部屋にいる時はよく聴く。
聞き流せるし、ちょっと聴くぞ!と耳をそばだてると、その期待に見事に応えてくれる、不思議なピアノ。緊張感たっぷりに訥々と進んでゆき、疲れたなぁ、と思う頃やんわりと、コルトレーンの優しさに溢れたテナーが入ってくるあたりの編集も見事。

大学生の頃、一人でジャズ喫茶に入り浸ってた。

当時通ってた、日大芸術学部は江古田にあり、友人とダベル時は駅前の「シャルマン」という、なんでもない喫茶店で一日を過ごしたが、一人の時は池袋の「ジャズ・キッス」という、ジャズ喫茶が新鮮で、怪しくて、フリージャズ爆音のこの店に、よく出掛けた。ジョン・コルトレーン一色だった当時のジャズ界だったから、私も「アセンション」なんて、つまらぬ前衛の失敗作LPを新宿の「オザワ」なんかで輸入盤予約して買ってたが、今聴いてもおもしろくない。でも、20代の血気さかんな芸術坊やの私だったから、そんなコルトレーンを否定できないでいた。アルバート・アイラーやドン・チェリーは、なんか笑えるから、好き。前衛って笑えるもんだと思ってた。テンパッテる人をみてると、やっぱ笑えるよね、どーしても。

「JAZZ KISS」で、ある日このコルトレーンがかかった。といっても、この頃はしょっちゅうかかって、嫌気さすんだけど、隣に座ったフーテンみたいな、汚いなりの男が「アセンション」の、誰が、なに吹いてるのか皆目見当のつかない轟音に感極まったのか、席を立って「ワーッ!ヒャー!」とか叫んだ後、私の隣に何事もなかったように座ります。ジャズ喫茶って、会話禁止だったから店員に注意でもされるんじゃないかとヒヤヒヤしたが、されません。その座るタイミングの良さが見事で、退屈な音楽にいいアクセントを付けてます。店員もこの汚い「ジミヘン野郎」のパフォーマンスを見て見ぬふりして楽しんでいたんだ、きっと。

「ジミヘン野郎」が実は同じ日大芸術学部映画学科に籍をおいているのだそうだ。でも学内で彼を見たことがない。私もあまり構内にいなかったから、彼とは「ジャズキッス」で映画のことなど筆談で論じてた。いい授業になった。でも、コルトレーンがかかると「ワー!ヒャーッ!」。

あろうことか彼はコルトレーンの後を追って自殺。
葬式で彼のご両親に会ったが、いいとこのおぼっちゃん、ではあったが、高卒のフーテンだった。
私なんかより、よっぽど芸術や映画に造詣が深かった。

彼の部屋にはモンクとコルトレーンのレコードがたくさんあった。

母親が遺品の日記を見せてくれて、「一番の友達だった・・・あいつは俺をバカにしなかった。」と、私の事を書いた部分に複雑な思いを感じた。決して一番の友でもなかった筈なのに、彼はそう思ってたのか・・・と思うとやるせない気分に襲われた。親友同士という実感がお互いにあれば自殺なんてなかったかも、と思うのは私の思い上がりかもしれないな。
会ってる時は、とにかくゴキゲンだったから、アイツ。でも、なにがしかの、いきどうりがあったんだろう世の中に。生きてる価値をいつも芸術に求めていたから。私は私で芸術に価値などないよと反論してた。だから、必要なんだとも、いってたのに、そのへん伝わらなかったのかも知れない。

同じ好きなら、コルトレーンじゃなくて、モンクのピアノのように飄々と生きてれば良かったのに。

2001/5/23


  #6  ピエール・ブーレーズ指揮 シェーンベルク/浄夜<弦楽六重奏のための>作品4(日本コロムビア/LP)



私は、暗く不穏な空気が漂う音楽が大好きである。

なんか今から、とんでもない事が起きるちょっと前、あの説明のつかない、ただならぬ空気。静かなんだけど妖しい雰囲気が、あたりを充満させている、あの不気味と殺気とそれに伴う緊張。

私、これでも昔は人並みに結婚した。

下北沢のはずれにアパート借りて、しばらくは、ままごとみたいに幸福だったし、女房は美しかった。1年ほどしたある日、下北の駅から一緒に帰途につく事になってダラダラ歩いてたら、彼女「疲れた、おぶって!」。
具合でも悪いのではないか、と思い美しい彼女を背負って歩きだした。好きな女をおぶっているのである、別段恥ずかしくもなく、スマートで軽量な彼女は苦にならなかった。

しばらくして、私の首のあたりに彼女の手が巻きついた。はじめは、じゃれているのかと思ったが、くどい。うっとうしい感じがしたが、我慢した。なにせ惚れあって一緒になった女である、イヤな事もあるんだろう、と察し背中の彼女を、なすがままにして歩いてた。エスカレートしてきた彼女の手は、いよいよ首を絞めてきた。

さすがの私も「苦しいよ」と告げて、彼女を下ろし、2人黙って歩きはじめた。その時はじめて、嫌われている自分を知る。

無言が続く、いやーな空気がどんよりと流れた、帰路の2人。

首を絞められている時、振り向く事ができなかった、恐ろしい顔の彼女を見るのが嫌だったから。

その後、しばらくして離婚。

シェーンベルクのやたら遅い、この「浄夜」を聞くと、2人無言で歩いた時の、うらはらに激しい内面を映す。

なんとも、不穏なレコードである。

2001/6/10


  #7   rufus thomas/crown prince of dance (stax LP)

大学生の頃、映画の勉強すればするほど、学校で理論学んでる場合じゃなくなって、バイトで日活の現場を体験してた。

よくも悪くもアホの集団が映画のプロの人達で、アート青年の私は、甘ったれた独り善がりな芸術思考の中に、適当なアホさを充分に身に付けさせてもらった。
プロになることを現場の人達は勧めてくれたが、古い体質の中で、娯楽に方程式が出来上がってしまっている事、それに流されているように見えて、私は映画界には就職せず、CM制作会社の「東北新社」に卒業と同時に就職。
若かったんだよ。CMの方が新しい世界に思えたし、なんといってもTVで見るCM映像に未来を見てたんだ。ま、どの道、単なる宣伝映像なんだけどね。

自分の映像表現なんて当時16ミリカメラのフィルモで自主映画撮ってたし、自分の事はそれで事足りてたし。映画の仲間はそんな商業メディアに身を置くのは堕落だ!なんて言ってたけど、じゃ、三里塚行ってドキュメンタリーでも撮ってればいいのかい?それが切実な生き方ならいいけど、おれは切実なら、そこで生活して日々の思いを撮るよ、もしかしたらカメラなんていらないんじゃない?と、喧嘩してた。そんな時代。

要するに、シボレーのコンバーチブルに乗りたかったし、可愛いオネイチャンとも遊びたかったんだ。

もう難しいことに疲れてたんだ。

仲間達がどんどんダメになってくのを見てたし。結局自分の身は自分で守らなきゃいけないという、ネガティブなんだかポジティブなんだか、分かんない状況にあったんだ。

「東北新社」には3年いたのかな。ダメな社員。16ミリで自主映画なんて撮ってたから、仕事に遅刻するは、打ち合わせでは居眠りするは・・・の、へたれ社員。そんなだから、せっかくの博報堂や電通のかっこいい仕事なんてそうそう回してくれません。

でも、仕事以外の遊びでは、同年代の同僚とディスコによく出掛けた。

こんな私のようなダメ同僚でも、みんな慕ってくれて感謝している。

先輩の山崎さんに新入社員歓迎の名目で連れていかれた六本木の「エンバシー」。

「ビブロス」なんかより黒っぽくて、肌にあってよく徹夜で踊りまくってた、私。というのもこの「エンバシー」は私が学生の頃、黒人にメシをおごれとカツアゲされた場所で、後にも先にもカツアゲされたのは、この1回きりで、いい思い出である。
たとえ、不幸な出来事でも、生き死にの事でもない限り、においては貴重なネタを得る訳で、結果その後の人生に「おもしろおかしいネタ」として大活躍する訳である。

当時「大使館」という名で実に黒人なディスコでこわかったけど「エンバシー」に変わってみたら、居心地が良かったのに驚いた。こっちが大人になっていたからかも。

「東北新社」の男女若手社員数人と深夜の恒例「エンバシー祭り」。

ルーファス・トーマスの「I WANNA SANG」がよくかかってるハコは、他になく、これがかかると血がイタリア系黒人になってしまう私は、たまたま隣に座ってた東北新社美人受付嬢の手をとって、強引にペアになり、へんな踊り方で笑わせるに十分な、意味なく激しいダンスを始めた。

なんだか凄く喜んでくれて、大笑いしてくれた。

彼女大笑いすると鼻が鳴っちゃって、それが私とってもキュートに感じて、笑わせてばかりいたんだ。育ちの良さそうな控えめな普段の彼女だから、笑って鼻を鳴らすところがキュートで素敵だった。その後に必ず恥ずかしそうに、うつむく素振りにグッときた。

恥じらいは婦女子の美徳である。

2001/6/30


  #8   kate & anna mcgarrigle/dancer with bruised knees ( warner/LP)



一時期トラッドに凝った事があって、アメリカ白人のふるさと音楽はカントリーなんかじゃなくて、もっと土俗なものに思えた。で、トラッド寄りのPOPSに惹かれた。あれだけ好きだったジャズやブルースもアメリカ黒人のふるさと音楽って、実はクリフトン・シェニエやプロフェッサー・ロングヘアーなどのアホ乗りニューオリアンズPOPな土俗と勝手に決めていた。音楽背景を言えば長くなるし、つまんないから、そのへんは評論家に託すけど70年代後半の私が一番音楽を必要としてた時期にポッカリ清廉な風を感じたのがトラッドだった。パンクばかり聴いてた反動もあったように思う。
キーワードは「愛のある土俗」だった。 
シンプルなものに、どんどん惹かれた。

渋谷の「ジニアス」でジャッキー・マクリーンを聴いた後、「ブラックホーク」でペンタングルなんか聴いたその足でヤマハ楽器に向かい「MC5」なんかのLP買ってた一貫性のなさ。生活も破綻していて、金はあるが、なんか日々満たされず意味不明な絵ばかり描いてた。御茶ノ水の「ダンテ」という、今でいうクラブみたいなギャラリーで個展をやれば、そんなくだらない意味ナシ絵がそこそこ売れたりしたのも気に入らなかった。とにかく、なにからなにまで気にいらなかった。別に誉めてくれるのは嬉しくない訳ではないが、ギャラリーのオーナーが「君は才能があるんだから」と前置きした上で「花」の絵はもっと高く売れるよとかなんとか商売の話ばかりで、なんか腹が立った。誉めたりしなきゃ、もっと頑張って「意味不明な絵」に磨きがかかったのに。パンクな生活を送っているときは勝ってしまってはいけないのだ。負け続けてこそのパンクだ。

売れる絵を描こうと思わないし、また描けない。その世界に生きようと思わないんだから的外れもいいとこ。なんか知らないけど、満たされてないんだ!苦しいんだ!と自己満足に表現してるだけで救われるはずだったのに、現に絵を描いてる時は夢中で徹夜を繰り返したし。

個展のBGMに「ケイト&アンナ」をお願いしたのに、絵のフィーリングに合わないと言われた。

音楽と絵のジョイントを画策する狙いとオーナーに言われていたので、絵を描いてる時に聴いてた「ケイト&アンナ」を迷わず決めたのに、本人の個展で本人の意図が反映されず、腐ったようなハードロックが爆音で流された。オレの作品は腐ってんのか?いや、見てくれは確かに腐ってはいるが、シンプルで清廉な彼岸を願っての作品行為を理解しない。視覚と聴覚がバッティングする事のつまらなさ。暴れる映画を見ていて戦闘場面になったら、私は静かで悲哀すら漂わす音楽を求める。また、そのシャレ方が好きだ。

自分のフィーリングでやるなら、自分の個展でやればいい。オーナーと私の二人展じゃない、これは私の個展なんだと、言えばよかったが、何故か伝えなかった。

腐った毎日を送ってはいたが、脱しようと絵に託していたんだから、腐ったままでいた訳ではない。

今だに、この個展の事を思い出すと腑に落ちない。

2001/7/15


  #9   NICO/chelsea girl (MGM /LP)



この人の事を思い出すと頭が痛くなる。

ヴェルベット・アンダーグラウンドで突然現れた時は、すっかり魅入って、さすがウォーホルもの凄く冴えてるな、こんな人めっけちゃって、と。

この人の醸し出す暗さが、妙なポップ曲を重くしてカッコいい。ヴェルベット狂いが続くことになる。ジョン・ケールやルー・リードも好きだったが、ニコは特別で音楽家というよりウォーホル寄りの才人に思えて、その意味では「POP」だった。

何年前だったか、ニコ来日。今は無き渋谷ライブインでの公演に出かける。

暗い歌と悲しい声とひどい格好のニコがステージでフラフラと漂っていた。ただそれだけ。感想もなにもあったもんじゃない。だめとかいいとか、の問題じゃない。あんなに死にそうな人見たこと無かった。まるで、死にたいと願ってるみたいで嫌だった。もっと嫌だったのが、この日の観衆。ニコが出てきただけで、もの凄い声援と拍手。なんかチグハグなものを感じてた。目の前で起きてる事はとても見るに耐えない事なのに、拍手してる。なんかおかしい。

僕の大事な「ポップ・スター」はこの日を最後に消えた。

ライブ後、友人の雑誌「ドール」編集長の森脇さんにニコの楽屋へ行きましょうよ、と誘われたが断った。死にたい人にどう感想を伝えたらいいのか自信なかったし。僕の「ポップ・スター」じゃなかったら、「ひどいステージだったね」と愛情入り混じったPOPな感想を笑いながら言いたかったけど、ニコはPOPでもなんでもなかったしスターでもなかった。

今でも、ニコの「チェルシー・ガール」はよく聴く。レコードで聴くニコは美しい。

つくづく思う、彼女のステージを見なければよかった、あんなチグハグで恐ろしいライブは初めてだった。人はいつかは必ず死ぬが、それは等しく平等に「死」なのだ。生きてるうちから「死」を抱えてしまったアノ日のニコはなんだったんだろう。

私にとってのニコ・ライブ雪辱戦は、今となっては不可能なのが心残りではある。

2001/7/27


  #10   LESTER YOUNG/the president (verve/LP)



なにか悲しい事や不幸な事が身に降りかかった時に限って、なぜだかレコードを買ってしまう癖が私にはある。

そして、時を経て、そのレコードを聴くと、いい事なのか、やな事なのか、否応ナシにその時の気分が、じんわり蘇ってしまう。だからなるべくハッピーな時にレコードは買わなきゃと思ってるが、イケイケの時は音楽なんていらないくらい幸福だからレコードは買わない。だから私のレコードの在庫は総じて暗いものばっか。

ギクシャクしたレスター・ヤングのサックスが嫌いで、太い音色のベン・ウエブスターがテナーの王様だった私。

昔、といっても私にとってはちょっと前にしか思えない昔。4年間付き合って結婚まで考えた人に振られ、彼女の部屋を出てみたが早朝4時では電車も動いていないので近くの横浜みなとみらいの公園でボーっとしてた。4時だというのにカップルが幾組みも居たりするから腹が立つ。
こんな時の港はむなしい。全てが空虚に見えるから始末が悪い。ボーっとしてるだけの、帰りの始発電車待ちでの時間つぶしの港は悪意に満ちている。小さく揺れる水面が「ザマアミロ」と囁いてる様にしか見えない。嫌な見え方しかできない。

失恋に港はツーマッチすぎて苦笑いしてしまった。

楽しかった彼女とのあれこればかり浮かんで、ほとほと自分にあきれた。とりあえず今この港に居あわせた中での一番のダメ男の私は港から逃げる事にする、失恋の港は残酷すぎる。

桜木町をぶらぶら。伊勢崎町をぶらぶら。関内をぶらぶら。気持ちもぶらぶら。
関内の「ディスクユニオン」で、暖かいベン・ウエブスターのレコードでも買おうとしたら1枚もなくて、レスター・ヤングの「PRESIDENT」がある、しかもデヴィット・ストーン・マーチンがデザインしたオリジナル仕様の再発モノ。この人の絵が好きなので買おうと思ったけど、レスターはへなちょこだから考えてしまった。でも今日はなにか買わなきゃ気がすまない、なにせ失恋してんだから。よくわかんない根拠で、デヴィット・ストーン・マーチンに負けて購入。

1曲目からして「スターダスト」。いやはや失恋記念盤にぴったりだ。あーあ。

でも、その時レスターのテナーがしみた。あんだけ嫌いだったのに、この優しさはなんだ。聞く人のこころもち一つでこうも印象が変わるのかと、音楽の深さを知る。

2001/8/19


  #11   CAPTAIN BEEFHEART/trout mask replica (REPRISE/LP) 



このレコードにはビックリした。

こんなひどい事していいんだろうか.....訳わかんないしゃべり入ってるし.......単なるヘタクソとも違う......ミステリアスで変質狂的なビート。整理されてんだか混沌としてんのかも不明なまま、グルグルと不思議な魅力にのめりこんで、退屈目指して熱狂する、退屈でない退屈音楽のとりこに。

後々ヴァージン盤で邦題「美は乱調にあり」なんてアルバムも出たけど、まさにキャプテン・ビーフハートの乱調芸術の決定盤、この2枚組に極まれリ。

裏ジャケットにあるメンバー写真も、ほとんど狂人。ほかのアルバムに載ってるメンバー写真もアホ丸出しで、アホも、とことん突き詰めるとインテリに見えてくるから不思議だ。
そんな人達のやってるものに心動かされない筈もなし。ザッパほどのクールさ微塵もなし。いいなあ、やりっぱなし音楽のがぶり寄り、小股すくいなんて姑息な技なしの堂堂ぶり。

私が日大芸術学部在学中、国立音大に行ってた友達から、このレコードを貰った。

当時ジャズばかり聴いていてロックなんかには全然興味がなくなっていたので、そのロック好きな音大の彼女は「ジャズっぽいし渡辺さんも聴いてみれば?」とプレゼントしてくれた。でもそのあとで「私はあんまり好きじゃないけど」と付け加えた。

自分が好きでもないものをプレゼントなんかすんな!と一瞬思ったが、部屋に帰って早速聴いてみたら凄すぎて身体が震えたのを覚えている。これがジャズっぽいとはどういう意味なのか、音楽を勉強している人の知識の出所を確かめたかったが、それがジャズであれロックであれ、どうでもいい、こんなに自由な音楽に感動した。

で、思った。彼女、実はビーフハートが大好きなんだ。第一、自分が嫌いな音楽を他人に薦める訳がない。じゃ、なんで「好きじゃない」なんて言ったんだろう、とっても素直で育ちのいい娘だから、平気で嘘言う子じゃないし。

彼女も感動したに違いない、ビーフハートに。でもビーフハートは濃すぎたのだ、あの下品な声とアホ全開の容姿に。うら若き夢見る乙女には、ちょっと格好が悪かったのかもしれない。

数日後、あまりの感動を彼女に伝えたら、彼女の嬉しそうな顔がジワーッと広がったまま「でしょう?」と。

やっぱり彼女も好きだったに違いない。

お礼にマイルス・デイビスの「マイルス・イン・ザ・スカイ」をプレゼントした。

「ロックっぽいし、聴いてみたら?」と付け加えたら、「フッフッ」と笑ってくれた。

2001/9/3


  #12   CURTIS MAYFIELD/back to the world (curtom/LP)



下北沢が今みたいに、なんちゃってロックな街でもなく、腰の据わった、実にその町に根ざした好ましい形で、ロックやブルースやジャズを聴かせる店が点在していた70年代。なにか始まりそうなザワザワが気持ち良かった。

ライブハウスと呼べるハコは「下北沢ロフト」しかなかったし、「ディスクユニオン」もまだなく、個人で開く、自分の生き方が分かってしまうような、いい感じの音楽店が、ポツリポツリとあって、愛らしく営業する、そんな素敵な街に惹かれた。映画館は「オデオン座」が古色蒼然と存在し、デビュー前の米米クラブや町田町蔵が深夜にライブをしてたのもオデオン座。ロックがあれやこれや、この街でうごめいていた。ブレイク寸前の時期が最も刺激的なのである。

ロック喫茶「独」のオーナーが区議会選に立候補したりして、本物の活気が貧乏な街を支えていた。音楽や芸術や趣味が生活とともに、しっかりと息ずいて、ファストフード的な匂いは皆無でビンボウ臭いが工夫して生活している、のびやかなおおらかさが下北沢の魅力だった。

駅前の連れ込み宿の向かいにジャズ喫茶「マサコ」があって、といっても今もあの頃のままで盛業中ですが、よく暇つぶしにコーヒー飲みに出掛けた。別段常連でもなかったけど、一度ソニー・ロリンズをリクエストした事があって、それをママが覚えてるらしく、私が行くと「ロリンズの新譜入ったけど聴く?」という。ことさらロリンズが好きな訳でもないので困ってしまったけど、ママのそんな自然で何気なさが「下北沢」を代表していたような気がする。

「マサコ」で、吉田ルイ子の「ハーレムの熱い日々」という本を読んでいた。

以前彼女の写真展を見て黒光りする肌の黒人に魅せられ、この写真家の本当に黒人が好きでたまらない感じが伝わって、いいな、正直で、と思って好きになったので、一気に読んでいたら、サイケ柄のアッパッパみたいな服のママが、知らぬ間に私の隣に座り「ルイ子さん、よく店に来るわよ、明日も来るから、よかったら会ってみなさいよ」なんて言う。
会ってもどうなる訳でもなし、初対面の人に何話ししていいのか、ましてや大ファンという訳でもないし、ファンはファンだけど.............。

ママの何気ない誘いをむげに断る理由もないから、翌日「マサコ」へ。

吉田ルイ子さんは堂堂としていて、小柄なんだけど、自信に満ちた写真家の雰囲気を発散していたので、なにかオドオドしてしまいました私。
大体「ファン」という扱いで人になんか会った事がなかったから「ファン」という立場を確立できないでいた、というのが正しいのかも。

丁度この時、私が手にしていたレコード袋を見たルイ子さんが「なに買ったの?」と聞くので、ジャズじゃないので気がひけたが「カーティス・メイフィールドです」と答えて、レコード手渡すと「ブラックパワーよね」。

彼女の口から発せられるブラックパワーという言葉がよく似合ってた。

少し色黒で力強い表情の彼女こそ、まるで黒人に見えたもの。

そばで笑って見ていたママも、そういえば、面倒見のいい黒人のおばちゃんに見えてきた。
そのママが亡くなって何年経つんだろう。カーティス・メイフィールドもこの傑作アルバムを越えられずに死んでしまった。

2001/9/13


  #13   GEORGE RUSSELL/at the beethoven hall vol.2(MPS/LP)



多くの場合、正論は疑ってかかる事にしている。

犯人も特定出来ずに国を挙げてのケンカ腰。誰とやるのか。正義で収まるのか。立場変われば正義は逆転する。人間、わがままなもんさ。でも、あえて言いたい、やらなきゃならない戦争なんて、ない。

NY高層ビル破壊テロの話である。

ブッシュさんは「我々につくか、テロ側につくか」と言った。アホか。スタイリッシュでカッコいいが、偉そうで、そういう物言いは大嫌いだ、ワタシ。テロリストでない限りテロを是とする人なんていやしない。そういう態度が貧しいイスラム圏の人達をイラつかせる、とも思う。

一言「テロと闘う!」と、言えばいいのだ。あとは政治だ、力学だ、民衆を煽るやり方はうさんくさい。

ここ最近のアメリカの戦争参加の大義は「正義」である。世界の警察だから、大切なモチベーションである。そして、紛れもなく「正論」である。その正論の為に訳もなく多くの人が不幸に陥る。

それで、いいのか。

ここに一枚のレコードがある。皮肉たっぷりなドン・チェリーのトランペットとジョージ・ラッセルのピアノが白眉であるそのライブ演奏曲はアメリカ合衆国良き時代の大衆曲「ユー・アー・マイ・サンシャイン」。

ある意味アメリカを代表するこの簡素でノーテンキな曲を不気味で無邪気なヘタレ演奏をする事で十分に訴えかけている。批判?ノーフューチャー?悪ふざけ?どれも聴き取れるが決定打はない。ラッセルはインテリだからそのへん上手い。

「正論」を疑ってみた演奏のように聞こえる。

この、誰でも知ってる「ユー・アー・マイ・サンシャイン」という曲を正論で演奏されても味も感性も貧弱に映るだろうし、私はおそらく、そんなレコードを買ったりしないだろう。

なにか、ある筈だから、買ったのだ。そして見事に、その「なにか」は刻まれていた。

アメリカは立ち直るだろう、こんなレコードを出していたんだから。

2001/9/26


  #14   DISCHARGE/hear nothing see nothing say nothing (CLAY/LP)



笑わせるな!日本国の親父!やるなら堂堂と闘え!いや、堂堂と根回ししろ!敗戦国らしく。 
調査の為だって?どう見たって調査の筈ないでしょ。もはやケンカ慣れしてないんだよ、おれたちって。

結構仲良かったはずさ、あっちの人達とも。俺たちは俺たち得意の戦法がある筈さ、まずあっちの人達の言い分も聞いてやれば?アメリカの人達はテロ食ったんだから今なに言ってもダメさ。だから間に入ってチマチマやるのさ、くたびれるけど、なにせケンカ慣れしてないもん。

これは戦争じゃない、テロリストの犯罪だ、早く犯人をしょっぴけ!

戦争反対。

久しぶりに出たぞ、この恥ずかしい言葉。

久しぶりに聴いたぞディスチャージ。

2001/10/3


  #15   GRATEFUL DEAD/blues for allah (UA/LP)



病院のTVで偶然見た「NY高層ビル破壊被害者チャリティ」でニール・ヤングがジョン・レノンの「イマジン」をへろへろと歌ってた................いい奴だニール・ヤング。アメリカの象徴のウイリー・ネルソン爺さんの後ろでも例によってラスト・フィナーレだというのに、やる気なしのように、ゆらゆらしてた。

「イマジン」がアメリカの放送自粛規制音楽に決定したそうだ。

本当かな。でも、さっき確かにラジオで聞いた。アメリカはどうしても戦争がしたいらしい。

デッドみたいな緩やかな自由を謳歌するバンドを生み出している国のやることじゃない。

2001/10/7


  #16   SLY&the FAMILY STONE/there's a riot goin' on (EPIC/LP)



スライのこのアルバムにはその色気にシビれた。

アメリカでのブラックパワー台頭の時期からのある種の挫折感も匂わす音感はゾクゾクさせる。

そしてこのジャケットの秀逸さ。アメリカが不気味に漂っている。

ベトナムに負け、イラクに負け、そして今..................。

負けても負けても十分に豊かじゃないかアメリカ。 

2001/10/11


  #17   MC5/kick out the jams (Elektra/LP)



もういい加減戦争の話は止めにしたいが、どんどん戦時に突入していくもんだから、止めるきっかけがない。

東洋思想に「お題目」というのがあって、とにかく声を出して同じ事を繰り返して唱えるしかない。

戦争だから「誤爆」もあるだろう、土台人様のやる事だ、ピンポイントなんて無理な話さ。ひるがえって旅客機テロにしたって、ビル破壊によってあんなに人が死ぬなんてのも当のテロリスト達も思わなかったろう。深みにどんどんハマって本格的に人殺しのし合いになってきた。

あのビル破壊によって日本人だって何人か死んでいる。その救済は戦争によって解決しようとするか?私達日本人は。江戸時代の敵討ち制度じゃ解決出来ないことぐらい世界は狭くなったのだ、21世紀。

大国は貧乏国に武器を売り、そしてその国と闘う。小国は武器で勝てないと悟れば身体張って宗教張って、身ぐるみ武器さ。負ける筈が無い。ただ「勝てない」だけで、負けないのだ。

今度は「炭そ菌」とか出てきました。こわいでチュ。

アメリカもイギリスも日本もテロリストも国連も、怖くないのか?戦争。僕こわいでチュ。

怖いからって戦争かい?弱虫ども。

閉塞するばかりじゃないか!

kick out the jams !!!!!!!!

2001/10/16


  #18  TERRY RILEY/happy ending (warner/LP)
 


退屈な繰り返し、永遠と続く旋律。唯一、電子オルガンの入る一瞬が美しい。

どこまでも続く退屈に不毛な美意識が頭をもたげる。空しいまでのレコードに深読みをする。

要するに、この世は空しい、それ以上でも以下でもない。テリー・ライリーお見事。

このレコードの終わる瞬間にホッとする、終わって良かったとホッとする。安らぐ。

うるさくもなく、静かでもなく、何かあるでもなく................終わる。そして説明がつかぬ安堵感に包まれる。

なにが「ハッピーエンディング」なのか、詮索すらさせない。

この「コラム」アメリカとテロによる戦争突入に対する止まれぬ思いで連発したが、空しくなった。

気持ちは気持ちとしてあるが、JOJOではないが「どうでもいいけど」な気分に至る。

エンディングにハッピーなんてないのだ。かといってアンハッピーでもないのだ、要するに「終わる」だけなのかも知れない。

もう、この戦争のことは私の「コラム」に必要ない。

2001/10/21


  #19   the BEATLES/meet the beatles!(東芝音工/LP)



私にとって日本武道館は敗北の館です。

1964年、なんだか東京は盛り上がっていて高速道路は出来るし、夢のカラーテレビも我が家に入ってきた。父の「世界の人が来るんだから、オリンピックはカラーテレビで見ないとつまらん」の一言で堂堂の購入。嬉しかったなぁ、カラーテレビ。そういえば、初めてテレビを買ってくれたのも皇太子御成婚(現在の天皇)のパレードを見るために近所の電器屋から白黒テレビを父が買ってきた。今にして思えば随分と俗っぽいミーハー家族です。ともあれ世俗のエポックメーキングに乗ってしまうのは可愛い。小難しいこと考えない下町の職人を父に持つ、ほのぼのファミリー。

中学生の頃だったか、東京オリンピックがこの年開催され、東京の学校では観覧遠足授業みたいな取り決めがあり、クジ引きで観戦種目をクラスで決めることになる。私は陸上女子80メートルハードルの依田郁子選手のはちまき姿に惚れてたので迷わず「陸上」にエントリー。

外れて「柔道無差別級」。

しかも日本代表の神永選手はオランダのヘーシンク選手に秒殺。なんか悔しかった事だけ覚えている。観戦後、初めて行った武道館の自席あたりを掃除する手も押さえ込み状態でむなしかった。なんか妙なナショナリズムが私にもあった。後々、仇は猪木がとったけど....。

あれから2年か3年してビートルズ来日公演。しかも会場は忌まわしい武道館。外タレごときに武道館を使わすのは、いかがなものかといった新聞論調が懐かしい。別にいいんだよ、国技の柔道が世界に負けたんだから、国技がどうの云ってても....の気分だった。

これまた抽選でチケットをゲットする方式。今度は当り。雪辱戦だぞ武道館。

ステージ遥か先の豆粒状態のビートルズ、始終つまんなそうなリンゴがちょっと笑ってくれてほっとしたのと、ジョンのお調子ぶりが良かっただけで、会場の音は酷いし目の前には警備の男と目が合ってばかりで落ち着かない。俺はビートルズを見に来たんで、警備の男を見に来たんじゃないも〜ん。

でも観客皆の顔は上気していた。私はピンと来なかった。とにかく遠くで音がゴーッて鳴ってるだけだもん。終演後、武道館の外は感動したの、パンフを開げてキャーキャー言ってる婦女子が目立って「なんか違う私」。ビートルズは好きだったので同じように騒ぎたかったが「腑に落ちない私」。

あんなコンサートでもいいと思ってしまう日本のヤング。日本は負けだ....と、これまた妙なナショナリズム。多分、武道館のせいだ。

ま、ドリフターズが場違いとはいえ頑張っていたのだけははっきり覚えている。

その後、私は武道館には入ってない。

2001/10/31


  #20   TINY TIM/god bless tiny tim ( reprise/LP)



奇人である。

いつも楽しそうなタイニー・ティム。笑ってウクレレ弾いて、一人で古いミュージカルごっこをしている作品の数々。これまた奇怪なキャプテン・ビーフハートのファーストをプロデュースしたリチャード・ペリーも、この人の毒気に魅せられてのプロデュースですが、おおげさなオーケストラを使い不気味な作品に仕上げてます。

私が入学した小学校には特殊学級があり、そこには「くりちゃん」という、どうみても中学生か高校生にしか見えない大柄な男がいた。みんなは、なんだか怖がって近づかなかったが、校庭で遊んでいると、くりちゃんが小枝をタクトみたいに振りながら私の傍に来て何か歌ってる。

6年生達は教室の窓から、そんなくりちゃんを見つけると「くりちゃ〜ん!」と大声揃えてからかっている。入学したての子供ながら私はそれが「からかい」という行為である事は手を取るように分かる。上級生はその後で大笑いしてたから。
事情が飲み込めない新入生の私は、くりちゃんのアーウー言ってるだけの歌だけど聞いていた。メロディーはちゃんとあったし、枝タクトはシンクロしてたからジッと聞いていた。

不思議な音楽だった。

多分メチャクチャな鼻歌なんだろうけど、童謡に似た「くりちゃんシンフォニー」は懐かしい響きを持っていた。しかし、いつ終わるとも知れないそのパフォーマンスにちょっと飽きた私は、早く終わらせたいために拍手してみた、よくエンディングにつきもののあれである。こっちは新入生、相手は大きな先輩のはずだから無下に立ち去れない。なんと優しい私であったか。でも、母からは先生先輩の言う事はよく聞きなさいと言われていたので、純真朴訥な渡辺少年は傷つけずに終了の嘆願拍手をした訳である。

くりちゃんは、その拍手にまるで反応せずに、歌の途中であるにもかからわず、私が聞いている事すら関係なかったように走ってどっかへ消えちゃった。

「くりちゃん」が特殊学級生である事を知るのに時間はかからなかったが、みんなが彼をなんとなく避けている事が嫌だった。くりちゃんの歌をみんなもちゃんと聞けば不思議な高揚が得られるのに.............。

私が小学校を卒業しても、彼はまだ小学生のまま学校に残っていた。

タイニー・ティムの、このレコードにある音像は、限りなく「くりちゃん」を想起させる。

2001/11/9


  #21   FUNKADELIC/funkadelic's greatest hits (westbound/LP)



大体私は形にこだわる方だから、レコード棚にレコードが収まらなくなったりしてくると、なんかマニアの部屋みたいになるのが嫌なので、あまり聴かないモノは自分の店で「SALE BY OWNER」というコーナーをエサ箱に作って売ってしまう。だから自宅のレコードラックは、常にきっちりいい感じにしとかないと、気が済まない。このへん、店とはちょっと違ったりして。

今年フジヤマのホームページを作るにあたってのパソコン熱も、HP立ち上げて半年、できる事と出来ない事がぼんやりながら分かってきて、どうやら沈静化したと思ったら、またレコード熱がぶり返して........男というのは、どうして無駄な事に入れあげてしまうのだろう、なにかに集中してないと、生きていけない生き物らしい。

下北沢の「ディスクユニオン」で大好きなファンカデリックの初期ベスト盤を発見。こんなものが出てたんですね。あのいつものイラストじゃなくて黒ヤギさんの赤いべろがファンカらしくて素敵なジャケット。ファンカデリックもパーラメントも全部持っていたんだけど、この初期ベストの選曲や曲並びが凄くいいし、なにせジャケデザインが秀逸なので、これ1枚でいいや!と、このあたり実に男らしく、潔く、他のファンカやパーラメントのレコードを、店で各980円で売ってしまった。でも、このベストに収録されてない「マゴット」と「アルマゲドン」はどうしても聴きたいから、LP「マゴット・ブレイン」は売る気になれず、このへん実に女々しい。一体私は男らしいのか女っぽいのか。

ジミ・ヘンもエディ・ヘイゼルも死んじゃって肉感サイケ・ギターの進歩を遅らせてるけど、今や、イーノみたいに変にインテリ・アンビエント・ギターに変遷しちゃってしまった。

この頃のスライ・ストーン、そしてヘイゼル在籍時のファンカデリックのロック性は現在でも充分に価値がある。

2001/11/16


  #22   professor longhair/rock'n' roll gumbo ( blue star/LP)



ドクター・ジョンの「ガンボ」を聴いてニューオーリンズの得体の知れない音楽に興味を持った。 

ジョージ・ルイスなどの、ブラスバンドのトラッドっぽいジャズ演奏はレイドバックし過ぎていて避けてたが、実のところ、観賞用でない、楽しみ優先の庶民的POPは、やはり存在してるわけでブルースとロックンロールの南部的合体音楽はウキウキさせるに充分なリズムでひたすら楽しい。一番楽しかった頃のボ・ガンボスがやっていた音楽は、このプロフェッサー・ロングヘアー爺さんの日本的アレンジ。それもまた愉快な音楽だった。

日本のFVKというハードコアバンドにいたカトマンたちが渋谷のクラブで企画したDJ大会に参加した事があったが、カトマンは勿論、初期ハードコア音源だし、ユースケはメルツバウなどのノイズ音源でかっこよくスクラッチしてたので、私はもっさりしたボサノバやミーターズで空気を柔らかくしようと、大人らしく分別つけたもんだった(笑)。

でも、客はなんかハードなものを求めている風な空気を感じて、持参したレコードの中からブライアン・イーノのアンビエントにピストルズなんか被せようかとも思ったが、若ぶるのも恥ずかしいので、このロングヘアー爺さんの「ジャンコ・パートナー」をかけてスクラッチしてみた。おかしかったね、とっても。リズムはテンコシャンコしてて、爺さんの声がまたすっとぼけてる。DJしていて笑った。ビートの隙間にミーターズのバスドラをスクラッチして遊んだ。そう、もう客の事なんてどうでもよくなっていて一人で笑って楽しんだ、気分が高揚してきた私は「ドゥーイン・イット」で歌い始めたんだ。

歌うDJ。

みんなキョトンとしていたが、ま、いいじゃない、歌うDJ。

子供の頃よく聴いてた糸井吾郎の気分になったのさ、クールにプレイする今時のDJってやつの対極にある掟破りなDJ。楽しかった。

プロフェッサー・ロングヘアーの音楽は実に楽しい高揚をもたらす。

2001/11/25


  #23   柳家三亀松/艶笑三亀松節(キング/10'LP)



私が若い時は、TVで寄席中継とか浪曲の番組なんかが結構あって、案外好きだった。

中学生ぐらいの時だったか、姉の結婚披露宴で先代の柳亭痴楽のヒット落語「恋の山手線」をやったぐらいだから、ふざけた少年だったわけだ。笑いは取れなかったが(かなピイ)。

亡くなった志ん朝が新人の頃に、よく人形町の「末広亭」に行ってた。勿論志ん朝の出の時に限ってだが、気持ちよくハギレのいい噺っぷりが、高校生になったばかりの私にも、いい気分を味わせてもらった。姉の結婚式に落語をやったのがきっかけで、父の仕事の得意先に痴楽師匠のお弟子さんがいるので、会ってみないか、と父が言い出した時には焦った。別に落語家になりたい訳じゃないから......。なんとなく絵で生活するつもりでいた私を知ってか、父はそんな金にならない仕事よりは落語家の方が、なんぼか将来性があると見てたのかも知れない、ま、どっちもどっちという気がするな。画家より落語家というとこが、死んだ父らしくて思い出すとちょっと微笑ましくて泣ける。

そんなある日、いつものように末広亭の座敷の一番前で百円払って借りた座布団敷いて陣取る私。

学校終わってから直行したもんだから、夜の部始まったばかりで志ん朝まで時間がある。色物ないかなァ......と、のんびり思ってたら三亀松師匠が出てきた。

色物は色物でも、手品とかコミックバンドとか見たかったんで、まさかイロモノのエロ芸を経験することになるなんて思ってもいなかった。高校生だし。

大体が都々逸というものが、どう清元や新内と違うのか分かんないし、ひとり途方にくれる私。みんなは、拍手したりエロい笑いをしたりで盛り上がっているが、わたし子供だからわかんない、ちっとも。でも三亀松の怪しい話っぷりや気色悪い女の声色で演じる漫才に、それがエッチな笑いである事ぐらいは分かる。なんか恥ずかしくて、下向いてしまった。

いつもの様に一番前に座るんじゃなかった、どうも居ずらいぞ。恥ずかしい。

下向いた私に飛び込んできたのは「どっから来たんだい?坊や」の師匠の声。ハッと顔を上げて、師匠に「深川です」と小声で答えてしまった。なにせ純情一直線時代の高校一年生である、素直なもんです。

どっと、笑いが起こった。

無理も無い。師匠の高座での噺の劇中のセリフで、別に私に言ったセリフじゃないのは、すぐに理解した。更に恥ずかしくなったが、師匠の返しが粋だった。

「あんたじゃないのゥ、こっちの坊やから極楽行かせてやるのさぁ.....深川の坊やは、その後でね」

どうやら、廓話のようだった。

2001/12/5


  #24   roxy music/viva! roxy music (ポリドール/LP) 



the原爆オナニーズという日本有数のパンクロックバンドがいる。 

別に、しっかり働きつつ、パンクロックを演奏するイギリスのワーキングクラスのパブロックバンドの日本版である。 

原爆のこの「活動法」は潔いと思う。音楽を大切にしていると思う。死ぬまで音楽できる環境を自ら作っている、このあり方を美しいと思う。ドラマーの変遷はあったものの、エディ(b)、タイロウ(vo)、シゲキ(g)の3人は不動のものだった。
そのシゲちゃんが、仕事の都合でオーストラリアに配属になり、日本を離れるという。勿論、私の愛したバンド「the原爆オナニーズ」を続ける訳にはいかないらしい。

さて、原爆どうする?解散てな事はありえない。私が許さない。人様のバンドだけど(笑)。替えのきかないバンドなんだよ、原爆って。

みんなは知らないかもしれないが、原爆のライブ盤はCD「ON TIME」だけじゃなくて、実はその前にアナログ盤LP「Odd on live itself」というのがアルケミーから出ていた。私がジャケットデザインした。酷いデザイン。

私にデザイン依頼したJOJOが「タイロウ君がロキシーのライブみたいなデザインにして欲しいって」というので、まんま、そうした(笑)。鎖を文字型に整形して並べて、白黒コピーした紙を、6畳一間のこたつの上で、ああでもない、こうでもない、とそれはそれで考えつつ。様子を見に来たJOJOはその安っぽさに喜んでた。分かるヤツには分かるんだ、2人で笑った。いかにも陳腐なジャケットにしたかったんだ、ロキシーの「viva! roxy music」の文字は宝石だけど、原爆の「odd on live itself」の文字はその辺にある鎖なのさ、パンクでしょ。おまけに好漢エディはブライアン・フェリーでタイロウ君はロキシー・コーラスガールの図さ、わかるかなぁ、わかんねえだろうなぁ、へへへェ〜♪(松鶴家ちとせ風)。

タイロウ君の何気ない一言がゴージャスバンド「ロキシー・ミュージック」を陳腐にする。たいして好きでもないブライアン・フェリーだから、いい批評ジャケットだと、私だけは自画自賛している。

原爆のそのアルバムは、たちまち完売。

その後、原爆と非常階段が合体したバンド「原爆階段」のライブ盤がやはりアナログ盤でアルケミーから出たが、さすがのJOJOも私にデザイン依頼してこなかった。しかし、この盤のジャッケットデザインもロキシーのフィル・マンザネラの「801ライブ」に、なんとなく似ている。狙いなのかは定かではないが、私がデザインしてもロキシーネタだと、同じような事するだろうな。

なにはともあれ、原爆とのフレンドシップは強い。又デザインしたいな、だから続けてね、the原爆オナニーズ。

2001/12/14


  #25   billie holidey/lady in satin (columbia/LP)



ビリー・ホリデイ晩年の私の愛聴盤。

初期のレスター・ヤング入りの溌剌とした歌声は既になく、ガラガラ声の凄みあるビリー・ホリデイ。しかもレイ・エリス指揮のストリングスだから、哀しいったらありゃしません。「I'm a fool to want you」で、哀調たっぷりに弦が鳴った後、ヌーッと出てくるビリー・ホリデイの声に背筋が冷たくなる。凄い存在感、その一声だけで想像させる人生感。凄いレコード。

くだらない事いうが、私もこんなレコード作って死にたい。

人はみな、悲しい事、裏切られた事、事件、楽しかった事、いろんな経験を積んでしまう。その振幅の大きさは人それぞれまちまちだが、ちゃんと生きようとすればしただけ、凄いモノを残せるような気がする。いや、別に残そうなんて思ってもいないが、それだけある種の感動を呼ぶと云う事を言いたいのだ。

人生をちゃんと生きたか。やりたい事をやったか、後悔は多い方が良い。失敗も多いほうがいい、なぜか、それはやったから。やらないヤツが多すぎる。そしてやってもいないヤツが、ぐだぐだ言葉ばかり達者になって成功を夢見てる。

その成功とやらは、すべて金銭に置き換えられる成功。私はこうゆう輩に出会うと猛烈に腹が立つ。

居たんだ、最近。このテの若者が。

クリエイティブな仕事にありながら、せこい頭の根性なし。笑えもしないエピソードばかりのくだらんヤツ。将来が心配とかぬかす。みんな心配じゃ!なにかクリエイトしようと思ってるヤツに将来なんてあるわけが無い!そう思ってもやり続けなければ生きてく術がないヤツが人を和ませたり、感動を引き起こしたりするんだよ。それが怖いならちゃんと安全な職に就け!おまえなんか貧乏にもなれないクズだ。

ろくに失敗もせず、人の成功例だけ見て真似するだけの人生に、おれは感動なんかもったいなくてしてやるもんか。もっとも、その成功例だって、ちゃんと実行できる程の毎日でもないだろう、きっと。顔みりゃ解かる。甘ったれの自意識過剰顔だ、そう書いてある。苦労のないマヌケな眉間に、その言動の端はしに。

例え成功して、有名になったとしよう、でもそれは俺には関係のない、必要のないモノしか作り出していないに違いない。

とっとと成功でもしてろ!

あんなヤツにビリー・ホリデイの凄さなんてわからんだろう。

2001/12/27


(Ctadashi watanabe