#6
南海ホークウインド


東京ではNHK-TV「インディーズの襲来」が全国放映され私達の周りのバンド連中がにわかに話題を集めていたし、雑誌「宝島」キャプテンレコードが設立され紙媒体と連動して、いかにも若者の「ニューシング」としてインディーズという言葉も一気に認知される事になる1985年。

しかし、本当の「インディーズ」に代表される「ニューシング」は、表層だけの東京勢ではなくて、実はメディアに現れない関西にあった。これは、70年代後半のパンクロックにおけるロンドンとニューヨークに似ている。

「ZOUO」を解体したチェリーと「はなたらし」の破壊行為にいきずまっていた山塚君をツインヴォーカルとして、実にオーソドックスな王道ロックで2人を再生しようと企んだ関西のツワモノ達。

ギターに林直人(アウシュヴィッツ)ししょう(QP BOX)、ベースにエディ(the 原爆オナニーズ)、キーボードは杉作(ほぶらきん)、ドラムにイソベー(コンチネンタル・キッズ)という強力布陣。

本人達はこの一日だけのスーパーバンドは単なる楽しみの一つでしかなかったのかも知れないが、私の思いはもっと深かった。

1985年12月15日の大阪扇町ミュージアム・スクエアは朝から異様だった。

ナイト・ギャラリーというレーベルを立ち上げて間もなくの、元電動マリオネットの森田君主宰で彼の気合はまるで東京の訳の分からぬブームに対抗するような関西からの一揆にも思えた。前夜、彼の自宅に泊めてもらった時、関西勢のよそ行きでない本当のパワフルなイベントになる予感はあった。

果たして当日、現場のミュージアム・スクエアのスタッフとの行き違いや、ぎくしゃくとしたリハの進行に遅れに遅れる開場。ヨーランやthe 原爆オナニーズのリハも、なおざりでやる気の失せた現場スタッフを見て、あまりの困窮に泣き出してしまう森田君。居てもたっても居られなくなった私は外注のスタッフに取り合ったが、なぜかふて腐れた顔で、それでもなんとかリハは済ませる。京都の西部講堂や大阪のエッグプラントで自力で全てやりきってきた「インディーズ」の強者達とメジャーな方法論でしか進行しない現場スタッフとは、すでに微妙なズレが発生していた。

自分たちの今までのスタンスを壊さずに今の音楽を提示しようとするバンド連中に気概を感じたが、こんな異様な空気のまま、荒んだステージが続き、いよいよラストの「南海ホークウインド」。すでに深夜。

当日司会の私は、もう疲れきっていて、ラストまでなんとか来た事が奇跡に思えた。こちらがそんな空気だったから客も以心伝心で荒んでいたに違いない、半ば酷いライブと決め込んでいたに違いないから、ラストの「南海ホークウインド」で暴れ出すんじゃないかと察したが、もうヤケのやんぱちで「南海ホークウインド!」を連発する酷いMCをして演奏が始まった。

と、思ったら山塚君がステージで客よりも早く暴れていて音楽になりません。それでもチェリーはクールに歌おうとしてはいるけど、ステージは単なるカオス状態に陥り客もなんだか騒ぎ出す始末。

2分も音が鳴ってたかどうかで中断。

アクシデントとはいえ客の期待どうりに暴れる山塚君を森田君とモブスのケンジ君と私でステージからおろすと、チェリーが静かになったステージで、真っ直ぐ客に向かい「パンクはただ暴れるだけだと思ってるんやろ、お前ら!」と、この日仕組まれたように混沌としたお客さんに痛烈にアジテートしてた。

こんなステージになる筈ではなかった南海ホークウインド、失敗のステージ。

しかし私は猛烈に感動していた。体よくやり過ごしてしまうスマートさのない関西のバンド連中の素直さ、愚直なまでの音楽に対する思いを見た。

2001/10/28


←当日の模様を収めたアナログEPを限定200枚作ってメンバーに配った。この日の「恥ずかしくもリアルな自由」を、なにかあった時に思い出して欲しいと思いました。

 

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